《哲学的思考の試行》パラレルワールドの住人

ダンサーって
パラレルワールドの人だよなぁって最近思う。

だから「ちょっと変な空気感」が
身体から出てるんだろうね。

自分自身でありながら、
鏡という二次元の媒体に映し続けて
そこにエネルギーを注ぐ。

鏡に映るのは
「自分であって、自分でない」存在。

練習のために客観視し続けるんだけど
その客観視するのも自分自身。

ちょっと変な感じだよね、それって。

「見よう」とする自分と
「魅せよう」とする自分

からだは意識通り動いてくれないのが日常茶飯事で。

一人称であり、二人称でもある。

「私」なのに鏡の中の自分は 「あなた」

インプットとアウトプットが
同時並行に行われる時空。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は結構スプラッター映画好きなんだけど、
(あぁ、こんなに労力費やして
人間を木っ端微塵にするのねー、
素敵想像力!という感じで )

苦手な人ってグロさもあるけど
「自分も痛いと感じるから」というのもあるよね。

視覚で見ているだけなのに、痛い。

同時に

聴覚で聞いているだけなのに、痛い。

という感覚も確実に存在して。

自分じゃないのに。

でも痛覚を共有する感覚は
”対人間”には起こりやすいのに
”対動物”には起こりにくかったりもして。

個人差はあるし、
感情移入した動物には起こりやすい。
虫には起こりにくいのに。

これってなんなの?と思うんだよね。

身体としては別個体なのに、
感覚として共有できるものがある。

そう考えると
「私」という感覚はどこまでも拡張していけるし
逆にどこまでも収縮していける。

これが、DNAの記憶だとしたら、
やはり意識と身体を別物として
捉えるのは時代遅れ。

DNAにも記憶が宿る。
細胞一つ一つにも、
血の一滴にも。

”私”という意識なんてとても脆くて儚いもの
けれど確実にこの身体に”ある”ということは言える。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こうやって考えるのは
別に答えが欲しいからじゃなくて、
考えるプロセスによって自分が得るものがあるからであって。

社会的に見たら
無益なことをしているなぁといつも思う。

そしてめんどくさいと思われるんだろうなとも思う。

けど、国家というものが「国民を幸福にする機関」として
存在するのであれば。

「幸福」とは何かを考え続けることも
そんなに疎まれることではないのではないかとも思う。

そして、「幸福」またその対極にある感情の発生源を
意識的に探し続けることも。

そんなことを考えつつ
映画「猿の惑星 ジェネシス」を観るのです。


写真:月夜乃散歩
衣裳:新古粋(Neo Koiki)